築城年代は定かではないが一説に南北朝時代の築城とも云われる。
千徳城は天正20年(1592年)廃城となっているが、そのときの城主は一戸孫三郎で、「南部諸城破却書上」に「千徳 山城 破 一戸孫三郎持分 唐之供 留守甲斐守」とあり、南部氏庶流一戸千徳氏の持城として破却されている。
千徳氏の発祥には諸説あり、土岐氏の流れを汲む千徳氏が元亀元年(1501年)南部家臣桜庭氏によって滅ぼされたとも、鎌倉時代に鍬ヶ崎・笠間の地頭職を得て笠間館を居城とした閉伊氏の庶流とも云われ、後者の説が有力とされる。
閉伊氏の嫡流は後に田鎖城を居城として田鎖氏を称しており、閉伊川を挟んで南北に位置することから、千徳氏を河北閉伊氏、田鎖氏を河南閉伊氏とも呼ぶようである。
千徳城は閉伊川とその支流である近内川が合流する地点の西の山塊に築かれている。
主郭は東よりの中央、標高80m程の山頂にあり、南に二郭、北西に三郭、さらに北に四郭と、主郭から四方に伸びた尾根に曲輪を配している。また周辺にも堀合館、千徳古館といった跡が残り、この丘陵全体を城域としていたようである。
山に入る道はいくつかあるようですが、南側にある千徳八幡宮の参道を利用するのがわかりやすい。
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