築城年代は定かではないが暦応2年・延元4年(1339年)以前に築かれていたと見られている。
暦応2年・延元4年(1339年)津軽の曾我氏は本家大光寺曾我氏が北朝方、分家岩楯曾我光高(光貞)が南朝方となって同族で争った。このとき、尾崎城は岩楯曾我氏の属城であったが、大光寺曾我氏によって攻められている。
永禄年間(1558年〜1570年)頃の城主は尾崎三郎衛門・尾崎喜蔵で大光寺城主滝本重行に属していたが、天正3年(1575年)大浦為信によって大光寺城が落とされると新屋城主新屋源次郎とともに大浦氏に従ったという。
尾崎三郎衛門は堀越城主津軽則信の子元信の弟という。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で津軽為信は徳川家康に属して大垣城を攻めた。この時、為信は国元へ増援を要請した。尾崎喜蔵・三ツ目玄蕃・板垣兵部・松野信安の四人は上洛するため堀越城を出発して深浦港に至ったが、松野信安を除く三人は堀越城にとって返して謀叛を企てた。しかし、徳川方の勝利と主君津軽為信の武功の知らせが届き、三ツ目は火薬の発火で焼死、板垣と尾崎は今信則によって討ち取られた。
尾崎城は尾崎集落にある複郭の平城で、本郭・二の丸・木戸口出丸・勘助出丸などの曲輪で構成されていた。
尾崎八幡宮の北側の宅地が本郭で、周囲に空堀が巡っており、特に北側の堀は幅20mと規模が大きい。この本郭の東側の道路に面して石碑が建てられている。