築城年代は定かではないが佐藤氏によって築かれたと云われる。
佐藤氏は斎藤氏に従っていたが、佐藤紀伊守のとき密かに織田氏に通じた。永禄8年(1565年)斎藤氏は堂洞城を築いて加治田城を攻めたが、織田信長が援軍として駆けつけ、堂洞城が攻め落とされ斎藤方は敗れた。
永禄10年(1567年)信長の命によって斎藤新五を佐藤紀伊守の養子として家督を継がせ、佐藤紀伊守は隠居した。斎藤新五は天正10年(1582年)本能寺の変で討死したため、斎藤利堯が城主となったが、その後に森長可によって攻められ城を退去したという。
加治田城は梨割山から南東に伸びた尾根の一つ、標高270mほどの山に築かれている。現在は清水寺から登山道が整備されている。
加治田城は北西から南東に伸びた尾根上を削平して曲輪を連ねており、主郭には案内板が設置されている。主郭部東端に腰曲輪から竪堀が落ちているが、この部分が虎口になっている。さらに東下に下ると竪堀で区画された腰曲輪がある。もともとは公民館の辺りからこの尾根に登ってくるルートがあったようで、道標も残されているが、現在は北の谷から西尾根に登るルートが整備されている。
清水寺入口の公園に駐車場がありトイレも完備している。ここから山門前を通って行く林道があり、その終点が登山道入口で、道標もしっかりしている。未舗装の細い道だが、林道終点まで車で行くことも可能である。
最寄り駅(直線距離)