天文2年(1533年)草苅衡継によって築かれた。 草苅氏は藤原秀郷の後裔で、氏家基秀の三男備前守基親が陸奥国斯波郡草苅郷の地頭職を得て、父基秀とともに下向し草苅氏を名乗った事に始まる。 暦応元年(1338年)貞継の時、備前国三石城に籠って官軍を防ぎ、その功によって因幡国知頭郡を得て因幡国へ下向し淀山城を築いて居城とした。貞継の子氏継時には貞治元年(1362年)美作国苫東郡、苫西郡の地頭職を得て、応仁の乱では山名宗全に味方し戦功をあげ、以来山名氏に属して尼子氏や赤松氏らと戦った。
草苅加賀守衡継は尼子氏と度々争い、天文元年(1532年)には赤松氏の家臣浦上氏と戦い美作国東北条郡(旧苫東郡)と西北条郡(旧苫西郡)を切り取り、矢筈城を築いて居城を移した。しかし、山名氏は衡継を快く思わずこれを討たんとしたが室町将軍の仲裁により和議となった。
天文11年(1542年)毛利氏が出雲の尼子氏を攻めるとそれに従って毛利氏に属したが、毛利氏が備中高松城合戦の和議条件として美作国は宇喜多氏へ割譲することとなると、他の美作の諸豪族と同じく草苅重継もこれに対抗して、天正11年(1582年)には佐良山城を攻撃するなど、なかなか城を明け渡さなかったが、度重なる説得により天正12年(1584年)開城することとなった。尼子氏、宇喜多氏、羽柴氏などによる度々の攻撃にも一度も落城しなかった矢筈城もこれで廃城となった。
草苅重継は開城後、小早川隆景の家臣となり、筑前国福岡へ移って福岡氏と改めたが、後に毛利氏の家臣となり草苅氏に復姓した。
城は標高756.4mの矢筈山に築かれている。北側は加茂川、南西も加茂川の支流によって天然の濠となり、山頂付近は断崖絶壁である。 岡山県でも有数の大城郭ではなかろうか、西方向の尾根に累々と築かれた曲輪群は東西1kmにも及び、各曲輪も広く丹念に削平されている。
山頂部の縄張は山頂に本丸があって西へ続く尾根に二の丸、三の丸があり、二の丸から北西方向の尾根に土蔵郭を経て馬場がある。
西の尾根にある曲輪群は石垣の段のある曲輪あたりを中心として構成されている。 東尾根を多重堀切などで断ち切ってあり別城と考えても良い程の規模と独立性がある。 専門家ではないので、個人的な推測ではあるが、西尾根部分の城砦が築かれ、後に現在の本丸周辺にまで拡張した城ではなかろうか。
本丸は東西に長く四方急峻で二の丸へ続く西以外の三方は断崖絶壁である。この本丸のある峰を「大筈」東にある峰が「小筈」と呼ばれ、弓の両端の形に似ている事から「矢筈」と呼ばれる。
二の丸は東西に長く、本丸へ続く付け根の辺り狭くなっている。ここの北側面は大竪堀と名付けられているが天然の地形であろう。
二の丸から北西尾根方向に降りて行くと土蔵郭を経て馬場へ至る。馬場は北西方向に長く伸び北西端に土塁が残る。二の丸に近い部分に櫓台がありこれはやや東へ張り出している。櫓台の先が二の丸と同様にやや狭くなっている。その先にはl字形石塁とかかれた所があるが、天然の岩を削ったものであろう。防塁として機能したと思われ、馬場に通じる道や馬場の先に攻撃できる。
二の丸から西下へ降りた所にあるのが三の丸。三の丸も東西に長く、南側面に天然の岩が防塁となっている。
三の丸の西下にある曲輪は南と西に土塁が残る。そこから西へ尾根伝いに堀切、二重堀切、石橋、アベノ門、段、三重堀切と続く。
次に現れるのが石垣段のある曲輪で、これも東西に長く、東端に石垣段が残る。この辺りが西尾根曲輪群の中心となる曲輪で、尾根上だけでなく、北側の尾根下部分にも曲輪があり、石積も残っている。
石垣の段から西の尾根先まで累々と曲輪が連なり、成興寺丸へとたどり着く。成興寺丸は尾根の西端から北側へ伸びる尾根に曲輪が連なる。途中まで降りてみたが馬蹄形に削られた削平地の下は尾根道が大ヶ原地区へと伸びているようだが、西尾根部分の遺構も気になり降りてしまう訳にはいかないので、途中で引き返した。この下の大ヶ原地区には城主の館とされる内構居館がある。
引き返して西尾根に降りて行くと櫓台、大岩、堀切と続いて千磐神社へ降りてくる。
登山道は美作河井駅と千磐神社にある。 美作河井駅の裏から若宮神社へ行き、そこから谷沿いの道を進めば馬場にでる。城好きの方は是非山頂部だけでなく、三の丸から続く西尾根沿いの遺構を見て欲しい。歩く距離は途方も無く増え、美作河井駅に徒歩で戻るまで約五時間程の行程であったが、西尾根に残る遺構は本丸付近の遺構と同等かそれ以上の見応えがある。
伝草苅景継の墓所へは美作河井駅から加茂川を渡って県道を横切り山の方へ歩いて行くと道標がある。
最寄り駅(直線距離)