築城年代は定かではないが文明年間(1469年~1487年)に奥平貞昌によって築かれたと云われる。
作手亀山城主奥平貞昌が文明年間(1469年~1487年)に日近郷へ進出して日近城を築き、次男の貞直を置いて日近奥平氏の祖となった。
弘治2年(1556年)奥平氏の大半が今川を離反して織田方についたため、今川方の松平忠茂などによって攻められ、日近合戦となった。その後になって日近奥平氏は没落している。
元亀4年(1573年)には徳川家康に属していた作手奥平氏の所領となっていた。
元亀元年(1570年)奥平貞友の女「おふう」は奥平本家の仙千代とともにと武田氏の元へ人質として送られた。しかし天正元年(1573年)奥平氏は武田氏に背いて徳川方となったため、「おふう」は見せしめとして新城で斬首された。この「おふう」の墓が残されている。
日近城は広祥院の背後にある山に築かれており、現在は公園として整備されている。
主郭は山頂にあり土塁囲みで、西の尾根先に向かって曲輪II、IIIと連なっており、それぞれ虎口が開口している。この主郭から西へつながる曲輪群は一般的な山城の構造であるが、主郭の東側は変わった構造で、築城後に改修された痕跡と思われる。
主郭の東下には堀切2があり東尾根を遮断するが、そこから東へ伸びていた尾根を高土塁として北側は切岸加工、南側は緩やかな傾斜に加工している。そして作り出された空間が曲輪IVになる。
曲輪IVは堀切2を通路として北側へと出入りでき、北側には横堀状地形が広がるが、堀切は曲輪IVよりやや高い位置にあり、北側から直接曲輪IVを見ることはできない。
曲輪IVの南側面に土塁を伴う小規模な曲輪Vと粗い加工ながら西端に竪土塁を伴う曲輪VIがあり、曲輪IVの折れ曲がりの部分からスロープになって出入りできる構造で虎口4になっている。
この日近城は浅野文庫「諸国古城之図」に絵図が残されており、広祥院の東側には「在家 畠」、川を挟んで西側には「奥平久兵衛居屋敷」と記されている。
広祥院を目指せばよい。東隣に日近の里公園の駐車場がある。
登口は広祥院の奥にある奥平氏墓所の辺りからと、駐車場の上にある「おふう」の墓の脇などがある。