築城年代は定かではないが室町時代に野辺弾正忠忠房によって築かれたと云われる。
野辺氏は守護職畠山氏の被官で忠房の時代に平須賀城を築いて居城とした。その後、光快、光房、春弘と続き、春弘のとき幡山要害城を築いて居城としたという。
高田土居城はみなべicの南側一帯に築かれていた。 昭和30年頃の上空写真では、方形の土壇に堀が巡り、それを対角線の道が貫いている。
現在は県道35号線が対角線に貫く形になっており、県道の脇に案内板が設置されている。北東側は梅林で、その脇に空堀らしき窪地が確認できる。
発掘調査によって南北50m、東西70mの方形居館を中心に二重(一部三重)の外堀が巡らされ、15世紀から16世紀にかけて築城されていたことが分かった。
みなべic出口の南側、国道424号線と県道35号線の気佐藤交差点から県道側へ入り、100m程南下した所に案内板がある。
最寄り駅(直線距離)