天正8年(1580年)柴田勝家によって築かれた。
織田信長の部将柴田勝家が加賀に侵攻したとき、朝倉家臣吉田某と一向一揆の将岸田常徳が山中黒谷城に立て籠もっていたため、これを攻める付城として築いたもので、五日間の攻城戦で山中黒谷城は落城した。
柴田の付城は水無山から北へ伸びた尾根の上に築かれており、現在は遊歩道が整備されている。
医王寺の西背後がちょうど主郭となる城で、堀切を挟んで南北二郭で北が主郭と思われる。主郭は北西隅に屈折した虎口があり、その下方に2つの広い腰曲輪を備える。
さらに北の尾根に中央に塚状の土壇のある広い峰があり、この部分も城の一部と考えられている。
登り口は医王寺とと北尾根の先端部分にある。
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