築城年代は定かではない。 織田信長の加賀に侵攻に対応して、白山麓山内衆の大将鈴木出羽守の守る鳥越城への入口を固める為に修築されたといわれる。
天正8年(1580年)織田軍の加賀平定作戦で鳥越城とともに落城したという。
天正11年(1583年)前田利家が金沢に入城すると、家臣高鼻石見守定吉が城主となった。高鼻定吉は文禄年間(1592年~1596年)には一万三千石を領す重臣であった。
舟岡城は手取川に面した標高178.9mの舟岡山に築かれており、現在は遊歩道が設けられている。
舟岡山は西の手取川側は急峻な地形であるが、山上は広くなだらかであり小勢で守るような城を築くには不向きな山である。現在の縄張は加賀前田家の支城としてある程度の守兵が確保できることを前提としたものである。
舟岡城の曲輪群は南西の急峻な地形に沿って南北に曲輪を連ね南端部を城域としている。北に拡がる山腹は緩斜面地形で家臣団の屋敷などが展開されていたのであろうか。
主郭は石垣で固められていたようで、よく見ると至る所に石垣が露出している。隅石の一部は初期の算木積になっている。虎口南北両側にあって土橋が架かる。
主郭の北下に城内で最も広い土塁のある曲輪があるが、この虎口も土橋が架かり、東の土塁は横堀を伴って弓なりにカーブしており、見どころの一つである。
登口はいくつかある。車の場合は北の白山青年の家側から登るのがわかりやすい。白山青年の家に駐車可能で、建物の裏の案内板のところから遊歩道がついている。
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