山中鹿之介幸盛誕生の地と伝えられる。 山中幸盛は山中満幸の次男として生まれ、兄幸高が病弱であったことから山中家の家督を継いで尼子氏に仕えた。
永禄8年(1565年)毛利元就の軍勢が富田城を包囲した際には、毛利氏の武将益田藤兼(包)の家臣品川大膳と川中島で一騎打ちを行い、これを討ち取っている。
主家尼子氏が滅亡した後は、京で出家していた尼子誠久の遺児を還俗させて勝久と名乗らせ、これを旗頭として尼子再興軍を興した。一時は出雲の大半を取り戻したものの、富田城を落とせず、織田信長などの支援を得て再興を目指すが、天正6年(1578年)播磨国上月城を毛利氏に包囲され、勝久が自刃することで籠城兵を助命することで開城した。このとき幸盛も捕らえられ、毛利輝元が本陣とする備後国鞆の浦へ護送中に備中国阿井の渡にて謀殺された。
山中鹿介幸盛屋敷は富田城の北東にある新宮谷の南側の山腹に築かれていた。 特に遺構らしきものはないが、「山中鹿介幸盛 屋敷趾」の石碑が建っている。
山中幸盛の像は富田城にあり、「川中島一騎討之処」の碑が市立病院の北東(地図)にある。また、このとき討ち取られた品川大膳の墓が、その北西の山裾(地図)にある。
道の駅「広瀬富田城」から北上し、新宮橋南詰を東へ曲がって道なりに進む。道がy字になる所に新宮谷史跡の案内板があるが、谷の南側へ進む道を行けば新宮公会堂の近くに道標が出ている。
最寄り駅(直線距離)