築城年代は定かではない。城主は矢野氏で、矢野常陸介正基が大和国山辺郷よりこの地に移り城主となったという。
元亀3年(1572年)長宗我部元親の軍勢に攻められ落城。城主矢野常陸介正秀は討死したという。この時、遺児出雲守正高は河野氏を頼って落ち、後に毛利氏・河野氏によって城は奪還され矢野出雲守正高が城主となったという。
天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐で小早川隆景の開城勧告に従い開城となり、矢野出雲守正高・太郎兵衛正元父子はこの地を去ったが、後に正元の子正信がこの地に戻り江戸時代は下須戒村の庄屋となったという。
大陰城は肱川に大和川が合流する地点の西にある標高88.4mの山の先端部分に築かれている。
主郭は山の東先端にあり、西に堀切と土塁を設けて遮断している。主郭は東西に長く、東下に一段の削平地を持つ。この小郭の東下と北側斜面に一部石積がある。主郭の土塁にも石積が見られるが城の遺構かどうかは不明。
大和小学校を目指す。小学校の南側の道路を川沿いに北東に進んでいくと、左の山上に向かう車道がある。この車道を歩いて登って行くと途中から未舗装となり、さらに登って行くと右側の山に入って行く道がある。これを登って行くと主郭に達する。
最寄り駅(直線距離)