伊勢 茂福城いせ もちぶくじょう
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築城年代は定かではない。越前朝倉からこの地へきた平貞冬が築城し、朝倉貞冬(盈盛)と名乗って築城したという。保々西城の朝倉氏と同族という。
永禄10年(1567年)茂福掃部助盈豊は織田信長に降ったが、六角義賢に通じたため、滝川一益に長島城へ誘い出されて謀殺され、茂福城には山口次郎四郎を目代として置いたという。
茂福城は近鉄名古屋線の線路の南東側にある。 主郭の北西隅部とされる土壇が塚状に残されており、茂福城跡の大きな看板が線路に向かって掲げられている。