築城年代は定かではないが延文年間(1356年〜1361年)に山名師義によって築かれたと云われる。 師義は伯耆国守護山名氏時の嫡男で打吹城を築いて田内城より移ったと伝えられる。
その後、山名氏は出雲の尼子氏の台頭などによって伯耆国での求心力を失った。天正8年(1580年)には毛利の部将吉川元春が打吹城に入ったが、天正10年(1582年)毛利氏と羽柴氏の和睦により、打吹城は羽衣石城主南条元続の持城となった。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の後、米子城主となった中村一忠の所領となり、重臣山田越中守が城代となった。しかし、慶長14年(1609年)一忠が嗣子なく没して改易となると倉吉は幕府直轄領となった。
慶長19年(1614年)安房国館山城主里見忠義が大久保忠隣の罪に連座する形で安房国を没収され、伯耆国倉吉に三万石で配流となった。 里見氏は元和8年(1622年)忠義が没すると嗣子なく断絶となった。
打吹城は倉吉市役所の南背後にある打吹山山頂に築かれている。
主郭は山頂にあって北東隅部に天守台と呼ばれる櫓台があり、その周囲に石垣が残っている。北側中央には枡形、南東側にも虎口がある。北側の斜面には畝状竪堀群が残るというが倒木が激しく確認できなかった。
西側の中腹には「備前丸」があり南条備前守に由来するが、その居館跡は北麓にある 鎮霊神社の所で「備前屋敷」の石碑が建っている。
倉吉市役所を目指す。倉吉博物館との間に駐車場があり、ここから打吹公園内の遊歩道が山頂まで続いている。
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