天正7年(1579年)吉川元春によって築かれたと云われる。 天正7年(1579年)毛利氏を離反した岩倉城主小鴨氏を攻めた時の向城として今倉城は築かれ、正寿院・小鴨四郎次郎・鈴川治左衛門が守ったという。
天正10年(1582年)毛利氏と羽柴秀吉が和睦した後は羽衣石城主南条氏の持城となり、須藤丹波が城主となった。しかし、須藤丹波は領民の評判も悪く、文禄年間(1592年〜1596年)に南条氏に滅ぼされたという。
今倉城は国府川の西岸にある福光集落の一角に築かれていた。現在は宅地となっていて残存状況は悪いが、周囲より一段高くなり、周囲には土塁と堀の名残が残っている。
1982年に発掘調査が行われ、当時は東西に土塁が残り、西側に堀跡が確認されている。城は単郭でほぼ方形だが、南側の中央が南に張り出していたという。