寿永元年(1182年)小鴨氏によって築かれたと云われる。 小鴨氏は古代の律令制時代に国庁の在庁官人の家柄と考えられ、伯耆国でも古くより存在する一族と云われ、平安時代末期には西伯耆の豪族紀氏と争っていた。
元弘3年(1331年)後醍醐天皇を奉じた名和長年が船上山で挙兵すると、小鴨城(岩倉城)は名和勢によって攻略されたという。
応仁の乱の後は伯耆国守護の山名氏は次第に衰え、出雲の尼子氏の介入を受けるようになった。尼子経久は伯耆の諸城を攻略し、このとき岩倉城も落城した。しかし、永禄年間(1558年〜1570年)には安芸の毛利氏が勢力を伸ばし、羽衣石城南条氏らは毛利氏に荷担して尼子氏に反抗し、尼子氏は滅亡した。この頃、小鴨氏は羽衣石城南条宗勝の二男元清を養子に迎えて家督を継がせている。
天正7年(1579年)小鴨元清は兄南条元続とともに毛利氏を離反して織田氏に通じた。毛利氏は吉川元長を大将に岩倉城を攻め、天正10年(1582年)落城し小鴨元清は羽衣石城へ逃れた。毛利氏はさらに羽衣石城を落としたが、同年羽柴秀吉との和睦がなり、東伯耆三郡を南条氏に返還し、小鴨氏も岩倉城に戻った。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で羽衣石城主南条元続は西軍に属して改易となり、南条氏に従っていた小鴨氏もまた没落した。
岩倉城は岩倉集落の南東の標高247.0mの山頂に築かれている。山上は主郭、二郭と良く整備されていて見晴らしも良い。
山頂は南に主郭、北に二郭がある。主郭は南北に長くややひょうたん型。二郭は東西に長い。主郭と二郭の間は両側を削り落として狭めた感がある。二郭の南側の一部に土塁状の土盛があり、東端からは北尾根に向かって小段が続いている。その一部には石積がある。
岩倉集落の県道309号線沿いにある永昌寺を目指す。寺の前に岩倉城の案内板があり、この辺りの路側帯に車を駐める。登山口はここから橋を渡って東へ進み、やや広い道と合流した所にあり、道標がある。ここから山頂まで山道が通じている。
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