築城年代は定かではないが興国年間(1340年〜1346年)に伯耆国守護山名時氏によって築かれたと云われる。
上野国山名城主であった山名時氏が伯耆国の守護となった時に、その拠点として築いた城で、嫡男山名師義を配した。
延文年間(1356年〜1361年)に師義は打吹城を築いて居城とし、田内城は廃城になったという。
田内城は天神川に小鴨川が合流する地点の西側にある丘陵に築かれている。城山は小鴨川に面した東側は急峻な地形で、ここには建武4年(1357年)山名時氏が国を鎮める祈願所として建立したと伝わる田内神社がある。
南端最高所の主郭Iから北へ伸びた尾根に段々と曲輪を連ねている。主郭Iには模擬天守があるが荒廃していて一部の壁も崩れて内部が見えている。
曲輪IIIは山道で一部崩れているが、東西ともに土塁がある。さらに北へ下ると城内で最も広い曲輪VIがあり、南西隅のみ土塁がつく。この曲輪は中央西側が若干張り出す形になっており、下方の横堀はこの部分で屈曲して竪堀に変化する。北端のVIIは加工は甘いが、堀切4が完全に尾根を遮断せず土橋として残してあるので曲輪と見て良さそうである。
南から東が急峻な山であることから、北西の谷筋からの攻撃に備えるように堀が集中している。曲輪VIの西下のあたりは横堀と竪堀が組み合わさり、横堀は一部二重になる。
曲輪IIIから西へ伸びる尾根は二重堀切1と堀切2で遮断してある。この堀切の間を曲輪とする見解があるが、北側のみ切岸加工してあり南は自然傾斜である。堀切2も後世の改変でスロープが貫通しており旧状は不明であるが、南も北も竪堀が伸びており堀切だったのは間違いない。
曲輪の形状は比較的シンプルで明確な虎口も見当たらないが、北西側に設けられた堀群は戦国期まで活用されていたと思わせる遺構である。
模擬櫓(模擬 櫓)
小鴨川に架かる巌城橋の付け根、城山の南麓に釈迦堂があり、その脇に登口1がある。ここから墓地へ続く道を進むと西尾根のところに至りここにも登口2がある。
車は細いが釈迦堂のところに駐車可能。または側道を南に進んだあたりにも駐車可能なスペースがある。
最寄り駅(直線距離)