築城年代は定かではないが大村氏によって築かれたと云われる。
天正5年(1577年)龍造寺隆信は八千の軍勢を率いて大村領に侵攻した。大村純忠は今富城へ退いて防戦するよう峰弾正や一瀬半右衛門に命じたが、自分たちの村が荒らされることを憂い、わずか三百の兵で菅無田砦に立て籠もった。龍造寺軍は大軍をもって二日間攻め立て砦の将兵は壊滅し、峰弾正や一瀬半右衛門らは討死した。この戦いで龍造寺軍も被害を受けた為、琴平岳(麻生岳)の本陣で休息していたが、翌朝大村純忠は龍造寺軍を急襲し諫早へと退却させた。これによって麻生岳と呼ばれていた山は、朝追岳と呼ばれるようになったという。
菅無田砦は萱瀬小学校の北東背後の山に築かれていたという。 小学校の東側の道路を北へ上がり、東の小川を超えた北側に「菅無田古戦場の跡」(市指定史跡)の碑が建ち、この戦いで討死した一瀬半右衛門らの墓がある。
菅無田砦はこの北背後の山にあったといい、峰弾正と峰采女の墓がある所が砦跡という。周辺はミカン畑などで遺構は良くわからない。南の琴平岳は龍造寺隆信が布陣した所という。
古戦場の石碑は小学校の北東側にある(地図)。古戦場跡から東へ行く道路を登っていくと山上に続く林道で、峰弾正などの墓のある所まで車で行くことができる(地図)。
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