築城年代は定かではないが文明年間(1469年〜1487年)に大村純伊によって築かれたと云われる。
大村純伊は文明6年(1474年)二千余騎を率いて侵攻してきた有馬貴純(たかずみ)を中岳砦で迎え撃ったが、有馬氏に敗れ文明12年(1480年)に大村を奪還するまで加ヶ良島などで流浪していたという。
天正5年(1577年)龍造寺隆信が攻めてきたときには、菅無田砦に籠もって戦った峰弾正や峰将監らが今富城を守っていたという。
今富城は東西に伸びた標高30m程の独立丘陵に築かれている。 かつて国鉄の大村線の敷設に際して土取され、太平洋戦争時には高射砲などが据えられていたといわれ、城跡は激しく破壊されているという。
どの程度改変されているのかは定かではないが、現状城跡の遺構は残っている。城山の中間付近に東西に分断する堀切があり、そこより西側に二郭ある。日本城郭大系の縄張図では東を本丸、西を二ノ丸とする。堀切の東側は現状畑で城域に含まれるのかどうかは定かではない。
東の本丸は東側は石がゴロゴロする地形で、東端部は一段削られ、円形の石組みされた地形が残る。この部分は後世の改変であろう。西側は平坦で列石、石積による段が残る。 本丸と二の丸の間は空堀があったと思われ、一段低く、現状中央に土橋が架かっている。二ノ丸は本丸側の空堀と北側にl字の土塁が付いている。
城山の東麓に白水寺跡の案内板があり、かつてこの境内には大村純前の墓所(天文20年1551年没)があったという。
福重小学校の南約500m程の所にある丘陵が城山で、山の南側に標柱が建っている。この標柱から少し東へいった所に山上の堀切に通じる道が付いている。
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