慶長4年(1599年)大村喜前によって築かれた。 大村氏は藤原純友の後裔を称し、純友の孫直澄が肥前国藤津郡・彼杵郡・高来郡の三郡を与えられ、彼杵郡大村郷に住んで大村氏を称したことに始まるとされる。 喜前の時、玖島城を築き三城より居城を移した。
大村純前は有馬晴純の次男純忠を養子に迎え家督を継がせた。これが初のキリシタン大名として知られる大村純忠である。純忠は永禄6年(1563年)洗礼を受けてバルトロメウの洗礼名を与えられた。天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐に従い所領を安堵され、純忠の後に家督を継いだ大村喜前は、関ヶ原合戦で東軍について小西行長の宇土城を攻め、二万八千石弱の所領を安堵された。
大村氏は家臣団を再編する機会がないまま大名となったため、藩主の経済力が極めて低く、これを解決するため「御一門払い」と呼ばれる家臣団の整理を断行し、庶家一門十五家の所領八千石余を没収し、領内の総検地を行った。
玖島城は大村湾に面した丘陵に築かれており、現在本丸は大村神社の境内となっている。
玖島城は近世城郭であるが、天守はなく藩主の居館は本丸に築かれていた。本丸は北に搦手門、西に大手虎口門、南に台所門があった。本丸に南に二ノ丸があり、西側には巨大な空堀が巡らされ、その外側に三ノ丸を配していた。二ノ丸の南には板敷櫓があり、この辺りの石垣は慶長19年(1614年)大村純頼の時に大改修され、このとき熊本城主の加藤清正に意見求めたという。
城の西側の海辺には大村藩お船蔵跡(県指定史跡)があり、その北側には大村氏の別邸として建てられた梶山御殿が残っている。
五教館御成門(移築 城門)
板敷櫓(復興 櫓)
大村市役所の南にある大村公園が城跡で、周辺に無料駐車場がたくさんある。
最寄り駅(直線距離)