築城年代は定かではないが鎌倉時代に上相良氏によって築かれたと云われ、 以後代々上相良氏の居城となった。
南北朝時代には上相良氏は南朝方となり、人吉の下相良氏は北朝方として対立するようになる。その後南朝方に属した上相良氏は形勢が不利となって下相良氏に帰順し、相良氏惣領の座は下相良氏へと移った。
城は南へ伸びた丘陵の頂部に築かれている。鍋城絵図によれば、本丸の北背後に堀切を設け、南に二の丸を配している。二の丸には石積が描かれている。
近世に山上は農地や牛舎などが建てられ改変されている。 現在は本丸に建てられた牛舎も朽ち果て、本丸から二の丸辺りは竹林となっている。 二の丸には石積が確認できるが、本丸背後の堀切は道路となっている。山上は比較的広く勾配も少ない。本丸と二の丸の段差は1mにも満たず、堀切も明瞭でない為、現状では城跡とすら認識できるような地形ではない。
黒肥地小学校の北西、県道33号線と県道261号線の交差点から県道33号線を西へ300m程進むと右側に山へと入って行く坂道がある。これを入ってしばらく進むと十字路となるので左折して坂を降る。橋を渡ったその先の右手に標柱が建っている。
ここから無理矢理登る事となったのだか、山上に通じる良い道がこの先丸山地区の民家の脇(写真参照)にある。
最寄り駅(直線距離)