築城年代は定かではないが、平家の代官矢瀬主馬助が城主であった原城が人吉城の前身である。
建久9年(1198年)源頼朝の命を受けた相良長頼が遠江国相良より人吉に下向し、矢瀬主馬助を誘殺して原城を手中に収めて居城とした。
以降人吉城は代々相良氏の居城となった。相良頼房は島津氏に臣従して豊臣秀吉の九州征伐とも戦ったが、秀吉に寝返って所領を安堵された。関ヶ原合戦では西軍に属して大垣城に籠城していたが、秋月種長や高橋元種とともに東軍に寝返り所領を安堵された。これによって人吉藩二万二千石の大名として江戸時代も存続し、鎌倉時代から明治に至るまで代々人吉を領した珍しい大名の一つとなった。
近世城郭として石垣などを用いるようになったのは天正17年(1589年)相良長毎のときで、豊後より石工を集めて改修を始めた。工事は度々中断されたが、慶長6年(1601年)頃には本丸、二の丸などが完成、寛永16年(1639年)に工事が中止になるまで改修は続いた。
文久2年(1862年)寅助火事によって建物の大半が焼失、翌年の改修のとき、北側の石垣に人吉城の特徴でもある「武者返し」が設けられた。これは西洋式の工法で防火がその目的である。
人吉城は球磨川と胸川が合流する地点の南東側一帯に築かれている。現在の人吉市役所も城内である。
人吉城は山の上に本丸、二の丸、三の丸があり麓の相良護国神社の所に御館、人吉城歴史館の辺りに重臣の屋敷があった。本丸には天守は存在せず、二階建ての護摩堂(祈祷所)が設けられているだけで、二の丸に御殿があった。
人吉城の最大の特徴は水の手の南にある「武者返し」の石垣で、江戸時代に改修されたものである。水の手はその名の通り球磨川からの入口にあたる。
観光用駐車場が人吉市役所から人吉城入口付近に点在する。人吉歴史館は重臣相良清兵衛の屋敷跡にあり、発掘調査で見つかった地下室などの展示がある。ここに人吉城と原城の縄張図があるので頂いてから散策するのが良いだろう。
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