築城年代は定かではない。
『相良家文書 108 相良祐長軍忠状』に「一. 以同廿日(興国元年六月)、原田城大宰少弐頼尚若党以下凶徒等楯籠之間、押寄、致合戦、焼払了」とあり、興国元年に原田城で合戦があったことが知られる。
『熊風土記』では城主を原田地頭の豊永氏、馬場園氏とする。
原田城は石水寺の北背後に聳える標高170m程の山に築かれている。石水寺背後の山は東、中、西と三つの尾根があり、東の尾根に原田城(東城)、中央の尾根に原田城(西城)がある。一般的に原田城として同一のものとされるが、東の城は西の城と別城になっているため、分けて紹介する。
原田城(東城)は石水寺の北東背後の尾根にあり、南へ伸びた尾根を主郭とする。主郭は概ね平坦で広く、側面は岩で絶壁となっている。北端から西へ伸びた尾根を堀切で遮断しており、西尾根には堀切や土塁状の地形があるが、後世の錯乱があるのか、曲輪とするべきなのか判断に迷う。西尾根はそのまま自然地形となり、南へ進むと原田城(西城)に至るが、途中公園化されていたのか遊具がある。
石水寺の西側から西城へ山道がある。
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