築城年代は定かではない。永禄5年(1562年)相良頼房が北原兼親を援助して伊東氏から飯野城を奪還し、北原氏を復帰させたが、翌6年に北原氏の小城を攻めた。このとき、頼房はこの大畑城に立ち寄っている。また『熊風土記』には城代として佐無田伊勢守長利、その後西権之丞目代とする。
球磨郡から日向や薩摩、大隅に至る交通の要衝であったため、江戸時代も相良藩の郷士が多くいたという。
大畑城は鳩胸川東岸の比高40m程の丘陵に築かれている。
大畑城は曲輪群全体を高い切岸で囲み、支尾根を全て空堀で遮断、外側を土塁にした横堀などを周囲に配している。虎口は南西隅にあり、そこから虎口を繋いで主郭に続いている。
南山麓に民家があり、その脇から山に入って行く道がある。
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