築城年代は定かではないが応仁・文明年間(1467年〜1486年)に菊池氏一族の出田秀信によって茶臼山に千葉城として築かれたと云われる。 その後、大永・享録年間(1521年〜1531年)に現在の熊本城南隅位置にある古城址に鹿子木親員が城を築いたのが隈本城の始まりとされている。
天正15年(1587年)の秀吉による九州平定により佐々成政が肥後一国を与えられ入城するが、検地を強行した為、国衆一揆が勃発し、その責任を問われ摂津尼崎で自刃した。 翌年、肥後は加藤清正と小西行長に与えられ、清正が隈本城に行長は宇土城に入る。
関ヶ原合戦においては清正は東軍、行長は西軍に付き清正は宇土城を攻め落とし肥後一国を与えられる。 清正は慶長6年(1601年)隈本城と千葉城のある茶臼山を大規模に開発し、隈本城を改修して後に熊本城に改める。 清正の後を継いだ忠広は幕府から11ヶ条もの罪状をあげられ出羽庄内藩に配流となり、忠広館に移された。
替わって豊前小倉から細川忠利が入り明治に至る。
とにかく素晴らしい、そして疲れた。 宇土櫓を始めとする現存建物もさることながら高く積み上げられた石垣とその曲線美、坪井川沿いに一直線に伸びる石垣と長塀、新堀橋からの堀底を走る道路、どこを見ても一級品。
2016年熊本地震によって大きな損傷を受けた熊本城を見学してきました。報道などである程度の被害は把握していたものの、実際に目の当たりにすると呆然とするしかありませんでした。これらを復旧するには多大な時間と資金が必要なのは容易に想像できますが、一歩一歩復旧に向けて進んで欲しいと思います。ただ、これだけ石垣が崩れ、大きな工事が必要になるからこそ得られる新しい知識や発見があるのではないかと思うので、今後に期待してます。これから復旧完了に向けて日々変わっていく熊本城を楽しみに時々訪れたいと思います。
監物櫓(現存 櫓)
田子櫓(現存 多聞櫓)
七間櫓(現存 多聞櫓)
十四間櫓(現存 多聞櫓)
四間櫓(現存 多聞櫓)
源之進櫓(現存 多聞櫓)
東十八間櫓(現存 多聞櫓)
北十八間櫓(現存 多聞櫓)
五間櫓(現存 多聞櫓)
不開門(現存 櫓門)
平櫓(現存 多聞櫓)
飯田丸五階櫓(復元 櫓)
平御櫓(復元 櫓)
馬具櫓(復元 多聞櫓)
数寄屋丸二階御広間(復元 多聞櫓)
未申櫓(復元 櫓)
戌亥櫓(復元 櫓)
元太鼓櫓(復元 櫓)
西大手門(復元 櫓門)
南大手門(復元 櫓門)
大小天守(復元 天守)
御殿(復元 御殿)