築城年代は定かではないがj丸岡兵庫頭義興によて築かれたと云われる。 義興は尾浦城主大宝寺義氏の弟で、丸岡城の前身である備前館の押切備前守が永正10年(1513年)に横山城へ移った後、丸岡城を築いて丸岡氏を称したという。
元亀2年(1571年)大宝寺義氏が藤島城の土佐林禅棟を攻め滅ぼすと、義興は藤島城主となった。
大宝寺氏が滅亡した後は上杉氏、最上氏の支城となったが元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となった。
寛永9年(1632年)肥後国熊本藩主加藤忠広は改易となり、庄内藩酒井忠勝にお預けの身となり一代限りの禄として一万石が与えられた。庄内藩は忠広の居所として丸岡城跡に忠広館が建設された。正保3年(1646年)火災によって焼失したが再建され、承応2年(1653年)忠広が没すると廃館となった。
丸岡城は現在県指定史跡となり、丸岡城跡史跡公園として整備されている。
丸岡城は四方に土塁と水堀を巡らせた平城であったが、現在は北側のみ土塁と水堀が残っている。大手門は東側で馬出しがあったようである。
北に隣接する天澤寺には加藤清正墓碑(県指定史跡)があり、忠広が配流された際に遺骨の一部をこの地に運んだものだという。
加藤忠広の墓は本住寺(鶴岡市三光町1地図)にある。
公園の北側に駐車場がある。
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