築城年代は定かではない。文禄2年(1593年)に最上義光が小野寺領に侵攻したとき、城主樋口玄蕃正直の子、五郎通尚と次郎頼道が最上に内通して男鹿崎館に立て籠もり小野寺方の八口内城主八口内尾張守貞冬と戦ったという。
男鹿崎館は大役内川が役内川に合流する地点の南にある標高409mの山に築かれており、主郭には金比羅神社が祀られている。
南北に細長く伸びた山頂部にあり金比羅神社のお堂があり、ここが主郭となる。南北に小さく四段ほどに区画されているが曲輪は狭い。
北へ伸びた尾根は東西両側面が崖地状になった急坂の細尾根で、そこに二条の堀切5、6があり、その先に尾根を土塁として残す形で小さな削平地IIが確認できる。北端部は堀状の溝になった地形があるが、城にともなう遺構ではなさそうである。
主郭の南は三重堀切2で、西側は堀切から伸びる竪堀の間に竪堀が一条、東側もコブ状になった土塁があって竪堀になり、その下方から横堀になって最後は大きな竪堀3が落としてある。
主郭の東側面には少し降った所に横堀4が確認できる。このあたりの城ではこのような場所には畝状竪堀群を設けていることが多いが、ここは横堀になっていて興味深い。
道はないが、東側の林道が山に取り付いて尾根伝いにアクセスする。