築城年代は定かではないが平安時代に清原氏によって築かれたと云われる。 前九年の役で源頼義の要請を受けて安倍氏を滅ぼした清原一族は、内紛によって後三年の役で滅ぼされた。 この時最後の城となったのが金沢柵である。清原家衡・武衡一族の死によって、清原氏の所領は清衡が継承することとなり、奥州藤原氏の祖藤原清衡となった。
長禄2年(1458年)には十三代南部守行の子金沢右京亮が入り、文明2年(1470年)まで居城とした。その後は小野寺氏の家臣金沢権十郎などの居城となって佐竹氏が入部した後、元和一国一城令によって廃城となったという。
金沢柵は厨川の南、奥羽山脈の西の端に築かれており、現在は神社境内や公園として整備されている。現状の縄張は中世山城である。
主郭は山頂にあり、北西の金沢八幡宮の境内となった二の丸、その北に北の丸、南へ伸びた尾根に西の丸がある。本丸から東と南東に伸びた尾根にそれぞれ堀切を多数設けて遮断している。北の丸は周囲に広大な段曲輪を備え、南に伸びた西の丸は広く、南端東部や南西尾根を多重堀切で遮断している。
国道13号線沿いに「後三年役金沢資料館」がある。ここから車道が通じていて八幡神社下に駐車場がある。
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