築城年代は定かではないが文治年間(1185年〜1190年)に長谷部信連が築いたのが始まりとされる。
鎌倉時代には三善康信の後裔が筑後国生葉郡に下向して土着、問註所氏を称した。問註所氏はこの地で代々続き大友氏などに従っていたが、大友氏が没落した後には筑前・筑後に入部した小早川氏に従った。
文禄2年(1593年)問註所統景は文禄の役で小早川軍として戦って討死、その子政連は柳川城主の立花宗茂に仕え、長岩城は廃城となった。
長岩城は天険の要害を利用した城で、現在は遊歩道が整備されている。
長岩城の縄張は一般的な山城とは異なり、山頂や尾根上に曲輪を設けておらず、切り立った岩山の谷間にわずかな平場を設け、それを幾重にも重ねて城とする。 一番下の段に「長岩説教場」が建っており、この部分が居館であったと云われる。曲輪はこの部分から背後に続く谷地形にあり、石積などを利用して平場を設け、巨石の間を虎口とし、わずかな平場と通路を確保することで要害としている。周囲は切り立った岩山に囲まれており、まさしく天険の要害である。
谷を挟んだ東側には長岩切寄という支城があり、こちらは小規模ながら虎口や横矢の掛かる土塁などを設けた戦国時代の城で、長岩城と連携していたようである。
至る所に長岩城への道標が出ており迷うことはない。入口近くに路側帯があり駐車可能。
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