仁寿元年(851年)日田郡司職となった大蔵永弘が下向し、翌2年に築いたと云われる。
日田大蔵氏は代々日田郡司職を歴任し、大蔵永秀のときには源氏に味方して平家を滅ぼし、大蔵永信は蒙古襲来に備え、その子永基は蒙古軍との戦いで功を挙げた。その後、大友氏が豊後を支配するようになるとその被官となった。しかし日田大蔵氏は家督争いによって滅亡する。日田氏は後に大友氏から養子が入って再興されたがこれも滅亡し、日田郡は八奉行によって支配されるようになった。
大蔵古城は花月川に面した比高40m程の丘陵に築かれていた。現在は慈眼山公園として一部整備されているが、大半は山林や竹藪である。
主郭は最高所と思われ、西側に土塁が付いている。この最高所から切岸加工された平段が各尾根や谷間に拡がっており、城域はかなり山全体へと拡がっている。
北へ伸びた尾根の先端部に内桝形とされる虎口のある曲輪がある。この部分は城内でも低い場所に位置し、南側に細い箱堀状の溝が東西に走り、東端から垂直に曲がって南へ伸びている。この部分は堀というよりは通路と行った感じで、この途中に開口部がある。虎口は内側に鍵状になった地形があり、これをもって内桝形としているのだが、正直ショボ過ぎてよく分からない。
南西麓にある永興寺から主郭までは山道が付いている。ただ周辺に駐車できる場所がなく苦労する。
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