築城年代は定かではない。『小童村史』によれば、戦国時代末期には土屋氏の居城で、文禄元年(1592年)城主土屋景治は翁山城主長氏と戦って討死し、山根城は長氏に攻められ落城、以後、長氏は麓山城を拠点に小童を支配したという。
討死した景治の室は尾首城主湯浅元宗の娘であったため、一子虎若をともなって湯浅氏を頼って落ちたという。
小童山根城は小童小学校の南東にあり、北へ伸びた尾根の先端に築かれている。地元の方に山根城の所在について聞いた所、この場所を教えていただいた。『広島県中世城館遺跡総合調査報告書 』に掲載されている位置とは谷を挟んだ西側にあたり、縄張が異なるが、『日本城郭大系』の記述とは概ね合致する。『広島県中世城館遺跡総合調査報告書 』の場所はまだ未確認である。
主郭Iが最高所となり、北下に曲輪IIがある。主郭はきれいに削平されているが、北にむけてやや傾斜する。
北の尾根先は堀切1、南の尾根背後は二重堀切2で遮断している。二重堀切2は内側のほうが規模が大きく堀底はやや幅があり、薬研堀というよりは箱堀状になっている。
曲輪IとIIの段差は大きく直接上り下りするのは難しいが、西側に小規模な段Aがあるので、これを使って上り下りしていたと考えられる。
また、主郭の東下にはスロープBがあり、谷下から登ってくる道があるが、これが遺構かどうか判然としない。
西側にある民家の裏手に山根城主の墓がある。この裏手を散策する道が地元の方によって整備されており、そこから城へ行くことができる。
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