古くは文治元年(1185年)土肥実平・遠平父子は有福荘の地頭となってその守護所が置かれていたとされる。
築城年代は定かではないが鎌倉時代に竹内弥次郎兼幸によって築かれたと云われる。 建武3年・延元元年(1336年)竹内兼幸は南朝方として挙兵し同じく南朝方の小早川掃部助高平とともに北朝方の津口荘賀茂郷に入り地頭山内観西の住宅を焼いたが、その後、山内氏・長谷部氏などによって攻撃され有福城は落城した。
その後、有福氏の居城となってはじめ尼子氏、後に大内氏、最後に毛利氏に従ったとされる。 「日本城郭体系」によれば、有福城主は有福玄蕃頭義隅・有福義政・有福石見守政豊入道・有福玄蕃頭恒豊・有福九郎義国と続いたとされる。 「萩藩閥閲録巻103尾越正右衛門」の項によれば、藤原秀郷の後裔和智筑前守豊実の次男尾越朝実の子元貞がはじめて有福氏を名乗ったとされる。この元貞の時代、天正9年(1581年)に有福城の普請と番衆を置くように毛利輝元より命じられている。 有福伊賀守元貞の後には嫡子有福玄蕃允貞茂が早世したため、弟の尾越丹波守元久が継いで名乗りを尾越に戻している。
有福城は国道432号線の東にある標高525.2mの有福山(鶏足山)山頂に築かれている。
主郭は山頂に有って南北に長く北端から北西、北東に伸びる尾根に二段の削平地を設けている。また、南東の尾根先、東の尾根先、北東の尾根先には堀切によって独立させた出丸が設けられている。このうち、北東の尾根先には広大な削平地が残っているが、背後にあるとされる堀切は見当たらず、やや幅の広い竪堀状の遺構が北側斜面に見える程度である。
国道432号線沿いに案内板が建っているのだが一段下がった水田近くにあるために、注意してみないと見逃してしまう。 登山口の案内はないが、案内板と城山の間にある民家の脇から登山道がある。少し登ると左側にリボンがしてあるので、まっすぐではなく左側に進んで行く。この道を登ると主郭の北西の曲輪に達する。
最寄り駅(直線距離)