築城年代は定かではない。 城主は石蟹守元(日本城郭体系では「守元」日本城郭全集では「元宣」と記載されともに石蟹与兵衛とも名乗ったという)で、石蟹氏は三村氏の庶流といわれる。
天文年間(1532年〜1555年)に石蟹守元は尼子氏に捕らわれ出雲国富田城に十三年程蟄居させられていたという。
石蟹守元の室は庄氏敬の女であったといい、天文22年(1553年)に毛利氏と三村氏の連合軍が庄氏の猿掛城を攻めたおりには、庄氏に与したという。
元亀元年(1570年)宇喜多直家に攻められ降伏し、甲籠城主伊達氏とともに宇喜多氏の佐井田城攻めの案内役を強いられたという。
石蟹山城は石蟹駅の南東、高梁川に沿って北東に伸びた山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
南西の最高所を主郭とし、そこから北東に伸びた尾根に段々に曲輪を連ねている。曲輪の南淵に武者走りを設けており、それに沿って石積や大きな石を並べている。北側は傾斜を伴っているが、こちらも幅弘い通路となり、北山腹の曲輪XIVに続いている。
尾根の北端は大きな堀切で遮断しているが、その外側にも三段ほどの削平があり出丸と記されている。一方西の鞍部も城ヶ峠とあり、堀切のようでもある。ここから南に下ったところに今も水が湧き出ており「水の元」と記されている。
登山道は尾根の先から登る道と藤木神社から南の谷筋を西の鞍部に回り込んで登る道があり、周遊可能である。
藤木神社の境内に駐車可能で、案内板は北麓の国道から上長屋集落への入口のところに設置されている。
最寄り駅(直線距離)