永正2年(1505年)安宅監物秀興によって築かれたと云われるが定かではない。
その後、安宅駿河守吉安、続いてその弟といわる安宅次郎三郎秀益が城主となった。大永8年(1528年)秀益は三好元長に対して謀叛を起こしたが、間もなく蟇浦常利・島田時儀らに攻められ鎮圧された。
炬口城は洲本川河口の北岸、炬口八幡宮の北背後の山に築かれている。
炬口城は単郭の城で方形に近く高土塁を四方に巡らせている。北側の土塁はやや入隅状になっており、北西側に櫓台の張り出しがある。周囲は南へ続く台地に浅い空堀を東西に、南西に南北の短い堀切、それが南西隅で交わり竪堀状に落として処理している。北側にも台地と切り離す堀切を一条設けている。内部は南北の土塁に面した部分が一段高くなり、中央が低くなって、三段になっている。
虎口は東西に土塁の開口部があり、西が搦手、東が大手だという。西側の広い開口部は崩落か後世の改変を受けていると思われ、その脇に土塁の付いた堀のようなものも含めて判断が難しい。その付近には畝状竪堀群があり、数状の短い連続竪堀がある。東の大手は平入の虎口であるが、北の上段に向かって折れの付いた通路が付いている。
近年、炬口八幡神社の境内から遊歩道が整備され、かつ城内も木々が適度に伐採され、非常に見学しやすくなった。