天正4年(1576年)細川真之によって築かれたと云われる。
細川真之は阿波守護細川持隆の子であったが、三好義賢、長治父子に傀儡として利用されて不満を募らせ、天正4年(1576年)勝浦の福良出羽守連経を頼って勝瑞を脱した。このとき、旧臣の大栗右近、服部因幡守、森監物、源田源九郎らが集結し、茨ヶ岡の要害に立て籠もって三好氏に対抗したのが茨ヶ岡城とされる。
天正10年(1582年)十河存保が江村次郎大夫、本木新左衛門、露口兵庫、江邑兵衛進らの軍勢で茨ヶ岡城を攻め、真之は敗れて自刃したという。
茨ヶ岡城は那賀川の支流中山川に面した標高108mの山に築かれている。
山頂部は東西二つの小高い峰があるが、城が築かれているのは西側の峰のみである。 単郭の城で北、南西、南東の三方の尾根を堀切で遮断しており、南西、南東の尾根は浅いが二重堀切になっている。曲輪の北側に一部石積がある。南の谷間にも石積があるが、おそらく後世のもので城とは無関係であろう。
近くには城主とされる細川真之の墓がある。
南の県道から入る所があり、よじ登れば山頂に至る。
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