天正年間(1573年〜1592年)に湯浅対馬守兼朝の居城であった。
天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐の後、蜂須賀氏が阿波に入部すると、湯浅氏はこれに反して一揆を起こしたが鎮圧された。その後、阿波九城の一つとして重臣山田宗重が兵三百とともに和食城主となった。
元和の一国一城令にもかかわらず、和食城は寛永15年(1638年)まで存続していたという。
仁宇山城は現在の蛭子神社境内であったという。仁宇山城の所在は定かではなく、『日本城郭大系』では近くの小仁宇城を仁宇城とし、阿波九城の一つとしている。また『阿波国蜂須賀氏の支城「阿波九城」について』では蛭子神社境内の地を阿波九城の仁宇山城とし、小仁宇城は湯浅氏の居城ではないかとしている。
蛭子神社の境内となっているこの地は那賀川と中山川が合流する地点にあり、現状では川に面した北と東側に土塁状の地形が残されている。