築城年代は定かではない。通説では正和2年(1313年)に吉川経高が駿河国から安芸へ下向して駿河丸城を築き居城としたとするが、そのような史料は存在しない。吉川氏は駿河国入江荘吉川邑発祥である。
『安芸吉川氏の権力と城館(木村信幸-戎光祥出版)』によれば、安芸に下向したのは経高の子の世代で、このときの惣領は経頼であったがこの系統は没落し、石見吉川出身の経見が幕府から安芸の惣領職を認められて惣領家となった。この経見のときに小倉山城が築かれ、吉川氏の居城が駿河丸城から小倉山城へと移った。
駿河丸城は寒曳山PAの南東、比高30mほどの丘陵南端に築かれており、『吉川氏城館跡』として国指定史跡となっている。
2013年頃に訪れたときには木々が伐採され麓から曲輪部分が見えていた。その後伐採木などが放置されて中にはいるのもままならない状態になっていたが、今回は簡単に内部に入ることができた。
駿河丸城は谷を挟んで西側に本城域、東側に出丸と考えられる東郭遺構がある。
主郭は南の曲輪群Iで北西の堀に面して土塁を備えた広い曲輪I1と南下の帯曲輪I2、東端に小さな腰曲輪の三段で構成する。虎口は明確ではないが、I2から南の民家側に下るスロープは確認できる。
曲輪群IIは主郭の北西側を覆うように細長く伸びた曲輪で南西端に一段低いII2がある。概ね北側に土塁を備えており、主郭側には土塁がない。
曲輪はともに高い切岸が全周し、主郭Iと曲輪IIの間は堀1、曲輪IIの北側は堀2で周囲と切り離している。
主郭と曲輪IIの間の堀1やや広い空間があるが、そこには土塁状の自然地形Aをそのまま残してある。また堀は主郭と曲輪IIの間、曲輪IIの東側の2か所Bが非常に狭く作られており、この部分が小さな峠のように盛り上がっている。
堀2は曲輪IIに近い部分が一段深く掘り下げられているが、さらに北側部分も内側を削って幅広い堀としてある。
東の曲輪IIIは曲輪内部を小さな段差で細かく区画しているが全体的に不明瞭で、その周囲を高い切岸で囲み横堀で囲む。横堀はところどころ開口しているが、竪堀として伸びているのは西側くらいで、畝状竪堀群のような感じではない。
西側の本城域は曲輪の削平状態も丁寧で土塁もあり、曲輪を尾根から完全に切り離すように巨大な横堀を設けてあり、土木量の大きな城である。一方東側の曲輪IIIは山城の一角にある詰城のような縄張で曲輪は上端部を一面に削平するのではなく、小規模に削平して段とすることで土木量を減らしている。
南麓の民家前に案内板があり、そこから西側の尾根を経由して登って行く道がある。
駐車場はないが、東側の大きな通り沿いにある間所集会所かその近くの路側帯に駐められる。