築城年代は定かではないが吉川氏によって築かれた。
毛利元就の次男元春が安芸吉川家に養子に入った後も、吉川興経が日野山城から下城しなかったことが知られており、吉川興経の時代には日野山城が本拠となっていた。
吉川元春入城後も城郭整備は進められ元長、広家と続くが、普請は、天正19年(1591年)出雲国富田城に居城を移すまで続けられていた。
日野山城(日山城)は標高705.4mの火野山山頂に築かれている。現在は吉川氏城館跡の一つとして国指定史跡に指定されており、登山道が整備されている。
2005年に訪れた際は登山道こそあるものの、本丸一帯は木がないために夏草が生い茂り、とても遺構を散策して回れるような状態ではなかったが、今回訪れてみると各曲輪を十分見て回れる程には整備されていた。せっかくの国指定史跡なので、縄張図入りの案内板なども設置して山城ファンに堪能して頂きたい城郭である。
日野山城は山頂に本丸、南西尾根に出丸、北西尾根に三の丸、北東尾根に下り丸(中の丸)、南東の谷を挟んで二の丸、中の丸と二の丸の間に大広間の段と大門の原、大門の原の北に姫路丸、そこから北東の尾根先に姫路が岸がある。中世山城でありながら堀切や竪堀といった、一般的な防御施設が見あたらないのが一つの特徴であろうか。
大手道を上り詰めると大門が原・大広間の段を経て中の丸に至るが、この空間は本丸・二の丸・中の丸・姫路丸から見下ろされる位置にある。中の丸は本丸への入口に辺り、桝形状の空間が上下二段あってそれぞれ虎口を成している。
標高600mから630m付近の尾根にあるのが中城で、東端部に米蔵段がある。この辺りは内側を石積した土塁などが残されている。
国道261号線中山峠の所に道標が出ており、少し入った所に駐車場がある。その先に登山道入口があり、本丸までの道標はしっかりしていて道に迷うことはない。(地図)
現地の案内板には縄張図が記されていないので、持っていないようであれば吉川元春館にある「戦国の庭 歴史館」の展示に縄張図がある。この図面には曲輪名が記されていないので、曲輪名を加筆したものを置いておく。