築城年代は定かではないが吉川興経によって築かれた。
吉川氏は駿河国入江荘吉川邑発祥で南北朝時代に安芸へ下向し、はじめ駿河丸城、のちに小倉山城に居城を構えていた。
吉川興経の時代には周防の大内氏と出雲の尼子氏との争いが安芸国内まで波及し、吉川氏はときに大内ときに尼子方として戦っていた。 しかし親大内氏の家臣団が興経を排除して毛利元就の次男元春を養子に迎えて家督を相続させることを断行し、興経は隠居させられ深川に幽閉された。
吉川元春は毛利両川体制の一翼としておもに山陰方面を担当する。備中高松城の戦で羽柴秀吉と和睦、やがて毛利氏が豊臣政権下の大名として活動するようになると、隠居して嫡子元長に家督を譲っていたが、秀吉の九州攻めに従軍、小倉の地で病没した。このとき家督を相続していた元長はそのまま九州攻めに従軍していたが、元長も日向の陣中で病没し、遺言によって広家が家督を継いだ。
吉川広家の時代も日山城が拡張工事が進められていたが、天正19年(1591年)出雲富田城へ居城を移している。
日山城は標高705.4mの火野山山頂に築かれている。現在は吉川氏城館跡の一つとして国指定史跡に指定されており、登山道が整備されている。
比高300mと高所にありながら、東西約400mに及ぶ巨大山城である。特徴としては挙げられるのば、堀らしい堀が存在しない。部分的に石垣を用いている。曲輪の削平が丁寧で広い。主郭部より東端付近のほうが土塁が高いなどである。 東端部は城域の区切りが曖昧で、これを拡張中に工事が中断した証とする説がある。
城の見どころは曲輪VI2(10)大門の原からVI1(14)大広間の段に至る道筋で、曲輪VI2の入口はVI3(11)姫路丸とIII1(12)二の丸から土塁が伸びており、城門があったことを想定させ、そこからずっと両脇から見下されている空間が続く。 また、随所に残る石垣のなかでも、IV3(25)三の丸南側面に残る石垣、I4南側面の石垣は見ごたえがある。
国指定史跡として草刈りなども行われているようであるが、以前訪れたときよりも熊笹が全体的に拡がっている印象であった。
国道261号線中山峠の所に道標が出ており、谷筋を入っていくと駐車可能なスペースが有る。
登山道はところどころ道標があるが、沢沿いを登り途中から谷筋を登るルートで踏み跡がややわかりにくいところがある。また携帯の電波も谷筋は入らないところが多い。