築城年代は定かではないが南方氏によって築かれた。
南方氏は斎院次官親能の末裔で本姓門司氏であった。南方氏が安芸に入部した時期は定かではないが、南北朝時代と考えられている。
南方氏は代々本郷城を居城としたが、のちに中原城を築いて移ったとされる。
南方氏は元次の時代に毛利氏に従うようになり毛利興元から元の字を賜って元次とした。しかし元次の子就由のときに子細があった家が断絶した。これは井上元兼の粛清された時期にあたり、就由の母が井上元兼の女であったことから、これに関連するものと考えられている。
その後、就由の弟就正がお家再を許されている。南方就正は弘治3年(1557年)には周防国右田城の在番を命じられ、天正9年(1581年)備中国忍山城の在番を命じられている。
本郷城は浄徳寺の北背後の山に築かれている。
山頂部南端を大堀切1で遮断し、南側を城域としている。背後は堀切で遮断するものの、尾根先に明確な堀切は認められない。主郭Iは北背後に土塁を設けており、一部に石積を伴う。虎口は南東隅にあり、スロープで曲輪IIと繫がる。
曲輪IIは城内で最も広い曲輪で南北に長く、西側に屈曲する土塁(一部石塁)があり、南端は石積がある。西の屈曲する部分からは竪堀2が落ちている。南尾根は浅く堀切状の窪みがあるが、その先も不整形な地形が広がる。
主郭の東下には曲輪IIIがあり、北の堀切に面した部分に石積を伴う土塁、南側も開口部付近に石積を伴う土塁がある。さらに東下には竪堀で南北に区画した曲輪VIとVIIIがある。曲輪VIIIは竪土塁をともなう緩斜面で曲輪になるのか用途ははっきりしない。
曲輪IIとIIIの間の支尾根に曲輪IV、VIIがある。小規模ではあるが、土塁を伴っており形状も複雑である。
大手筋は浄徳寺の脇から続いている山道がそれに近く、曲輪IIとIVの間の谷、または曲輪IVとIIIの間の谷筋を入ってくるものと考えられる。
浄徳寺境内の西側から山に入ることができる。浄徳寺の方は城があるのをご存知で、車は駐車場に駐めさせていただいた。