△トップに戻る
日向国府国史跡
宮崎県西都市大字右松西海道に位置する日向国は、格付けでは中国・遠国である。
日向国府は児湯郡に置かれており、現在の西都市大字右松の寺崎遺跡で国庁跡の遺跡が発見された。遺跡は正殿の両脇に脇殿、築地塀跡などが発見され、...
日向国分寺国史跡
宮崎県西都市大字三宅日向国分寺は現在の木喰五智館の辺りにあった。発掘調査によって講堂跡、中門跡、回廊跡、寺域を示すと見られる溝などが検出されており、寺域は約200四方と考えられている。
天明8年(1788年)全国行...
日向国分尼寺
宮崎県西都市大字三宅日向国分尼寺は妻高校一帯にある諏訪遺跡に比定されている。この辺りは「法華跡」と呼ばれ、近くの坂は「尼寺坂」と呼ばれている。また、この辺りから出土する多くの瓦は国分寺や国府跡から出土している瓦と同時期の...
甲斐宗摂の墓町史跡
宮崎県西臼杵郡日之影町岩井川2109甲斐宗摂は中崎城主で仲山城主三田井親武の重臣であった。天正19年(1591年)縣城主となった高橋元種にそそのかされ、主君三田井氏の仲山城を攻め落とし、三田井家を滅亡へと追いやってしまった。その宗摂もま...
伊東塚県史跡
宮崎県小林市真方160-2元亀3年(1572年)伊東義祐は薩摩島津氏領の日向国真幸院への攻め込んだが、飯野城主であった島津義弘率いる少数の軍勢によって大敗を喫した。この木崎原の戦い(加久藤合戦とも)で討死した伊東氏の大将伊東加...
六地蔵幢(小林市)県文
宮崎県小林市堤字水流迫天文11年(1541年)の銘のある六地蔵幢(六地蔵塔)で県指定有形文化財となっている。この年には北原氏と伊東氏の連合軍が志和池高城で北郷軍と戦い多数の戦死者が出ていることから、北原氏が戦死者を供養する...
伊集院源次郎忠真の供養塔市文
宮崎県西諸県郡野尻町東麓伊集院忠真は伊集院忠棟の嫡男である。慶長4年(1599年)父忠棟が京都の伏見島津屋敷で島津忠恒によって謀殺されると家督を継いで都之城城主となったが、事件を知った忠真は反旗を翻し都之城などに籠城して庄内...
高千穂太郎の墓町史跡
宮崎県西臼杵郡高千穂町向山高千穂太郎は神武天皇の兄三毛入野命の子孫を称する高千穂氏の家系が途絶えた天慶年間(938年〜947年)に、大神大太惟基の長子大神太郎政次が養子となって高千穂太郎と称したという。
高千穂太郎政次を...
おひやさまの墓
宮崎県西臼杵郡日之影町岩井川甲斐宗摂の正室「おひやさま」の墓石で、「御室さま」が「おひやさま」になったのではないかとの推測もある。自然石の墓石であるが、その近くには宝篋印塔や一石五輪塔などが残っている。
大人神社の近くで入...
大人神社
宮崎県西臼杵郡日之影町岩井川創立年代不詳。主な祭神 品陀和気尊、大年神、大山祇命、菅原道真公、甲斐宗摂。
もとは宗摂八幡と称していたが、明治4年に大人神社と改称。
境内に「線刻六地蔵幢」(町指定文化財)がある。
伊東祐堯公墓市史跡
宮崎県宮崎市清武町船引伊東祐堯は伊東氏11代当主で、日知屋、門川、清武などを勢力下に治め、伊東氏の日向における地盤を築いた人物である。文明17年(1485年)飫肥城の新納忠続を攻めるため子の祐国とともに清武城に在城していた...
稲津掃部助重政の墓市史跡
宮崎県宮崎市清武町加納甲稲津掃部助重政は伊東氏の重臣で清武城主であった。
関ヶ原合戦では西軍であった高橋氏の宮崎城を攻め落とすなどの武功があったが、このとき高橋氏は東軍に寝返っていた。また主君伊東祐兵が大坂で病没したことも...
Copyright(C) 2003-2023,By PEI.