築城年代は定かではないが明応年間(1492年~1501年)頃に西原氏によって築かれたと云われる。
仁井田五人衆のひとり西原氏は初代清延が紀伊国日高庄から西原に来住して西原氏を称したとされ、明応元年(1492年)に西原から土居へ居城を移したという。
西原紀伊守貞清のときに長宗我部氏に降った。貞清は文禄・慶長の役で戦死している。
中江城は標高300mほどの山に築かれており、南端最高所の主郭から北へ伸びた尾根に曲輪を展開している。
主郭は南端Iで西を除く三方を土塁で囲む。北西隅の虎口1で曲輪IIと接続する。西中央にも山道が接続しているが改変と思われる。
主郭の南背後は三重堀切6で遮断しており内側の堀切は規模が大きく外二条は浅い溝程度である。東側面には幅広の畝状竪堀群5、西側面にも二条の連続竪堀8がある。西尾根は土取で消滅しているがギリギリの部分に縦溝が長く伸びており堀切7であったと思われる。
曲輪IIも東辺に高土塁があり一部内側に石積がある。南端西側に虎口2があり西山腹の山道が接続する。改変の可能性もあるが、虎口脇に土塁が付随して枡形状になっており虎口と考えておきたい。
曲輪IIIは北辺に土塁がつく。曲輪IIとの間の部分に浅い溝があり南北両側面に竪堀が落ちている。もともと堀切であったのを埋めた可能性が高く、これより北の城域は拡張された結果かもしれない。堀切跡脇に虎口3が開いており、下方の道ははっきりしないが、曲輪VとIVの間から東側面に続く通路があり、ここから虎口3に入っていたものと考えられる。
曲輪IVとVは浅い堀2で区画され、IVは西側面に列石をともなう低い土塁がある。曲輪Vは南と東に土塁がある。
城域の北端にある曲輪Vの尾根先には堀切が確認できないが、曲輪IIIから北西に伸びる尾根は大きな堀切1で遮断してある。
北西麓のある小さな神社のところに中江城の石碑が建っている。その北側にある橋の脇から無線塔に登る道が整備されており、そこから尾根伝いに登れば城域に入る。
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