築城年代は定かではない。
城主は阿瀬石見守重家で、近江六角氏の家老であったが主家が滅亡したため、八木城主を頼り、のちにに大野城主となったという。阿瀬重家は天正8年(1580年)に羽柴秀吉が鳥取城を攻めたとき、森脇忠良とともに鳥取までの道案内をしたという。
大野城は矢田川の南岸に聳える標高160mほどの阿瀬山に築かれている。
北へ伸びた丘陵の先端頂部に主郭があるが、そこから北麓に続く各尾根はかなり急峻な地形となっている。
主郭は比較的広く、南端に土塁を備えており、北下に帯曲輪、南端西下に腰曲輪を一段設けている。北の帯曲輪へは北東隅、西の腰曲輪も南西隅のあたりからスロープで繋がっている。
主郭の南下には堀切を挟んで二郭がある。二郭は主郭側の堀切に面して一段高い土壇があり、その南下に土塁で囲まれた曲輪を備えている。土塁は北東隅の土壇との間が開口しているが、そこから続く通路は不明である。
二郭からさらに南に続く尾根にも二条の堀切があり、その間は削平の甘い尾根となっている。
主郭から北西に伸びる尾根はかなりの急坂であるが、竪堀をV字に組み合わせたような堀切が二条あり、その下方に小さな段曲輪を連ねている。一方北へ伸びた尾根は切岸から少し離れたところに堀切を一条設けている。
北麓から登るが道はない。麓に駐車可能。
最寄り駅(直線距離)