築城年代は定かではない。「地下上申」によれば、城主の伊賀守が伊賀国の宇都可大明神を勧請したことが宇都可村(宇塚村)の始まりという。
弘治2年(1556年)厳島合戦で勝利を収めた毛利元就が大内領へ侵攻を始めると、坂新五左衛門元祐を主将として山代方面の平定に乗り出す。元祐は高森城を拠点として改修し地盤を固めると、元就は粟屋縫殿允元通らを援軍として派遣した。大内方の山代衆は近隣の兵を集めて成君寺山城に立て籠もり抵抗したが、さらに毛利方の援軍福原貞俊・赤川元保らが駆けつけ落城した。
成君寺山城は標高672.9mの成君寺山山頂に築かれており、現在は登山道が整備されている。
山頂部に曲輪IからIIIまで三段の曲輪がある。曲輪Iは西端に低い土塁があり、西下から南下にかけて曲輪IIとなる。曲輪IIの北端に曲輪Iに繋がる土塁スロープがある。曲輪IIの南下に曲輪IIIがあり、同じく西端に土塁スロープが付いている。
主郭から北へ伸びた尾根は堀切1、2の二条の大堀切で遮断してあり、南西尾根は自然の谷地形を使った竪堀と堀切を組み合わせた堀3で遮断する。東側は小さな堀切4があり、北側面には竪堀5が確認できるが、南からの登山道沿いには堀は見当たらない。
南野山腹にある成君寺は五百年の歴史を有する寺院と云われ、大永2年(1522年)の陶興房の感状などが残されているという。この山腹の境内一帯は広く幾重もの段が築かれている。 また江戸時代初めの慶長年間(1596年〜1615年)に発生した山代一揆で死罪となった庄屋十一名の記念碑や、その内の一人本郷村庄屋・北野孫兵衛の首塚が残されている。
麓には宇都可神社があり、これが伊賀守が勧請したという宇都可大明神であろうか。
登山道は南山腹の成君寺と北の林道からの道があり、北からの道はかなり楽に登ることができる。
南山腹の成君寺までは未舗装で道が悪いが車で登ることも可能である。
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