築城年代は定かではないが宝徳元年(1449年)頃に岐志四郎左衛門通明によって築かれたと云われる。
岐志氏は大内氏の家臣で、岐志四郎左衛門通明、岐志左馬之介通之の名が知られる。 天文23年(1554年)陶晴賢の部将宮川房長が率いる軍勢と毛利元就が戦った折敷畑合戦で、岐志通明の孫の岐志甲斐守が陶方として戦い討死した。
陶晴賢を下した毛利元就は坂新五左衛門元祐を主将として山代方面の平定に乗り出す。元祐は高森城を拠点として改修し、成君寺山城に籠もる山代一揆軍を攻略、以降、高森城を居城として山代地方を統治した。
天正3年(1575年)元祐が没すると嫡子宮千代が継いだが、宮千代も夭折し、弟が継ぐも幼少であったことから山代の統治からは外された。
高森城は牛ヶ田和集落の南東に聳える標高412mの山頂に築かれている。 現在は市指定史跡としてよく整備されている。
主郭は山頂にありその一角に御堂が祀られている。この御堂の周辺に石積があるのだが、御堂の為に積んだか積み直されたもので、どこにあったものかはわからない。南尾根の曲輪の側面に同じような石を使用した石積が残っているので、この城の石積であったのは間違いないであろう。ちょうどこの位置は一段低く主郭側にめり込む形であり、もともと虎口であったのかもしれない。
主郭から北へ続く尾根には低い段差で平段が数段続き、北端は竪堀が残る。北からの登山道によって大きく削られているので、堀切であったかどうかは分からないが、北東側に一条、北西側にも畝状竪堀群の畝(コブ)の部分が一つあり、その脇に竪堀がある。南尾根の堀切が竪堀を鋭角に交わらせることによって遮断しているので、こちらもそのような堀切であったろうか。
主郭の南尾根には大きく三段と小郭一段がある。南端の曲輪の東西両側面に石積が付いている。その下方は竪堀を両側に落とした堀で南西側は二条の竪堀が落ちている。
余談だが牛ヶ田和の「田和」はおそらく峠を意味する「たわ」から来ているものであろう。中国地方では峠を「たわ」、「たお」、「だお」と呼ぶことが多い。
登山道は東の県道2号線側ではなく、西の牛ヶ田和側からある。集会所の所に牛ヶ田和地区に残る中世遺構の案内板があり、そこから北へ進んだ所に登山道入口の道標が出ている。
車の場合、舗装された林道が北の尾根先まで付いていて終点に駐車場がある。(駐車場の位置)
最寄り駅(直線距離)