延享4年(1747年)毛利氏によって設けられた。
宰判勘場は萩藩毛利氏が領地を管理するために各地に築いた代官所で、山代地区には慶長17年(1612年)に本郷の地に山代宰判勘場が設けられたのが始まりである。
延享4年(1747年)山代地区は広瀬の地に前山代宰判勘場、元の本郷の地に奥山代宰判勘場と2つに分割して統治されることになった。このとき古土居の地に設けられたのが、前期の前山代宰判勘場であった。
安永5年(1776年)前・奥2つの山代宰判勘場は再び統合され、本郷の山代宰判勘場が利用された。しかし、天保13年(1842年)に再び前・奥山代2つのに分割され、前山代宰判勘場(後期)は庄屋の隅四郎右衛門宅に間借りして設けられ、以降明治まで続いた。
前山代宰判勘場(前期)は古土居(広瀬郵便局と浄光寺の間の辺り)に築かれていたという。現在宅地や畑となっており遺構はない。