築城年代は定かではないが鎌倉時代に斎藤実春によって築かれたのが始まりと云われる。
室町時代には津和野城主吉見弘信の弟竹内直信が、津和野城の支城として指月城主となりこの地を支配した。
天文23年(1554年)竹内豊後守弘時のとき、周防の陶晴賢が津和野城を攻めるため、周防山代方面から江良弾正、端土太郎らの軍勢が侵攻、指月城は落城し竹内弘時は討死したという。
指月城は標高520mの山に築かれている。
主郭は山頂部にあって北東から南西に長く伸びた広い曲輪で、西に一段下がって曲輪ii、北尾根には曲輪ii、iv、vがある。
主郭から東へ伸びた尾根にやや大きな二重堀切4、南には二重堀切5と二重堀切6があるが堀切の間隔はやや広く、現状では浅い。
曲輪iiiと曲輪ivの間は二重堀切3で、曲輪ivと堀切は落差があまりない。曲輪ivは中央部に土塁状の歪な地形があり、土壇のようでもあるが用途は不明。北西下の曲輪vは唯一土塁で囲まれた曲輪であるが、曲輪面をさらに掘り下げたような造成であり、後世の改変も考えられる。
北尾根を遮断する堀切1が城内で最も規模が大きい。
山頂を中心とする曲輪i、ii、iiiはともに尾根を二重堀切で遮断するのに対し、曲輪iv、vの部分は土塁を伴い、一条の堀切で遮断、南の二重堀切3との段差が低いことなど、改修された形跡と思われる。
登山道は中国道南側の側道の終点にある墓地の裏から続いており、登り始めて最初の分岐はまっすぐ登って行く。側道終点に駐車可能。
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