天文3年(1534年)頃に伊那部大和守重慶によって築かれたと云われる。 重慶は平家の末流で粟田口民部重吉の十六代の孫で、三百貫を領して十騎の将であったという。
重慶の後は伊那部但馬守重成が継ぎ、更に子の伊那部左衛門尉重親が継いだ。この重親の弟重国は殿島城主で、弘治2年(1556年)武田信玄が伊那に侵攻した際に最後まで抵抗し、狐島で磔にされた上伊那八人衆の一人という。
天正10年(1582年)織田氏の信濃侵攻により落城。重親の子とも考えられる春日河内守昌吉は高遠城に籠もり、城主仁科盛信とともに討ち死にした。
春日城は天竜川西岸の段丘に上に築かれており、現在は春日公園として整備されている。
春日城は台地の南東端に主郭があり、北から西にかけて空堀を巡らせ、その外側に二の丸を配している。二の丸の西には更に空堀を設けて三の丸がある。