嘉永12年(1635年)(久松)松平勝義によって築かれた。
天正18年(1590年)徳川家康の関東入封に際して、信濃国高遠城主で武田氏滅亡後に徳川家康に従っていた保科正光が多古に一万石を与えられ入封した。慶長11年(1606年)正光は一万五千石を加増され、旧領の信濃国高遠に転封となり、多古藩は廃藩となった。
嘉永12年(1635年)八千石の旗本(久松)松平勝義は、上総国武射郡と下総国香取郡に所領を移され多古に居所を構えた。寛文10年(1670年)勝義が没すると、次男勝忠は弟勝光と勝郷にそれぞれ五百石を分知し七千石となった。延宝4年(1676年)勝忠は駿河城代となり二千石の加増を受け九千石となった。延宝8年(1680)勝忠が没すると家督は勝忠の弟で勝義の九男勝以が継いだ。正徳3年(1713年)松平勝以は大坂定番となり、摂津国にて三千石の加増を受け、一万二千石となり諸侯に列した。以後、久松松平氏が続き明治に至る。
多古藩は保科氏から久松松平氏に至るまでの間に、越中国布市藩(野々市藩)の土方雄久が多古に五千石の加増を受け一万五千石を領した。このときに土方氏が多古に居所を移し多古藩が成立した時期があったともいわれる。
多古陣屋は多古第一小学校の所に築かれていた。 正門脇から見える校庭?の所に石垣があり、それが陣屋当時の遺構である。 案内板などは見あたらないが、入口付近にある「高野前神社・天神社の由来」に松平氏に関する記載がある。