築城年代は定かではない。享徳4年(1455年)享徳の乱で、千葉本宗家の千葉胤直は居城の千葉城を古河公方の原胤房・馬加康胤(まくわり)によって急襲され敗走した。千葉城を脱した千葉胤直・宣胤父子は多古城、弟の千葉胤賢は志摩城に籠城したが、千田庄に攻め入った原・馬加氏によって落城し、胤直・宣胤父子および胤賢も自刃して千葉氏の嫡流は滅亡し、千葉氏は馬加氏が継いだ。
志摩城は現在の島集落の東端部に築かれていた。 中世の頃、この辺りは大小多数の湖沼が点在する大湿地帯であったと考えられており、「島」の名が示す通り、湿地帯に浮かんだ島のようであったと思われる。
集落の東端部に畑となった台地があり、ここが「塙台」と呼ばれる広大な平地があり主郭と見られている。この西側が「二ノ台」で二郭とみられている。 開墾されていることもあってか、現状では城跡と明確に判断できるような遺構は余り残っていないようである。