築城年代は定かではないが文治年間(1185年〜1190年)に能勢氏の一族が築き、応仁の乱によって陣没して廃城となったと伝えられ、後に余野城が築かれたと伝えられている。
余野本城は光明山の東麓にある小高い標高406mの丘陵に築かれている。
単郭の城であるが横堀や畝状竪堀、虎口など極めて技巧的な縄張りを有する城で、応仁の乱によって廃城となったという伝承とは異なり、戦国時代まで活用された城であることは間違いない。
南北に長い曲輪は北端に土塁があり、南は土塁がなくやや小高い塚状の土壇が中央付近に残されている。虎口は西と東にそれぞれあり、西虎口は坂虎口となって北西下に降り、その先に土塁囲みの小郭を設けているのが特徴である。北から東側面に掛けては横堀で、所々竪堀を配しているのが特徴であるが、西側面は一転畝状竪堀としているのが特徴である。西背後の尾根への遮断は弱く、浅い堀状の地形が残るのみで自然の鞍部となっている。また南東の尾根先端部も横堀の延長のような堀切があるのみであるが、北側への回り込みを防ぐ竪堀があり、さらにこの竪堀に対して横矢を掛ける土塁の付いた腰曲輪が一段設けてある。
余野自治会館に駐車可能。山に入る道は民家の敷地からあるように見えるが、入れそうにないので、終点近くにある資材置き場の手前からあぜ道を使って山に取り付く。
最寄り駅(直線距離)