築城年代は定かではない。伊作良道の子有道が給黎氏を称してしたと云われるが定かではない。
応永18年(1411年)島津元久より伊集院頼久が給黎郡を賜り給黎城を居城とした。応永20年(1413年)伊集院頼久を盟主とする国一揆が勃発し、島津久豊が給黎城を攻めたが落とすことができず、一旦退き相良氏の援軍を得て再び給黎城を攻め、これを落とした。
その後、一時蒲生宜清の所領となっていたが、島津忠国の子島津忠弘が入り、後に喜入氏を称した。喜入氏は季久のときに山之城へ居城を移し、そのあとには加治木より肝付氏が入部した。喜入肝付氏は承応2年(1653年)に肝付家仮屋に仮屋を移している。
給黎城は旧麓地区の西の山に築かれている。
旧麓地区にある小公園に案内板が設置されている。この縄張図によれば、東へ伸びた南北三つの尾根がそれぞれ曲輪となり、北から北之城、本丸、南ヶ城と呼ばれているようだ。
南方神社から浄水場に続く車道を進むと本丸の西側に至るので、ここからよじ登ると遺構がある。道路の東側に土塁囲みの小郭があり、さらに大堀切を隔てて東西に長い曲輪がある。この曲輪は鬱蒼と茂った竹やぶとなっていて東端付近まで歩いてみたが、土塁のようなものは見当たらなかった。
北之城は未訪問、南ヶ城は道がついた簡易水道施設のところかと思ったが、地形図と図面を合わせると本丸の南西側にある尾根であったかもしれない。