築城年代は定かではないが室町時代中期に刺賀政頼によって築かれたと云われる。
刺賀政頼は大内持世によって長門国守護代に抜擢された鷲頭弘忠(盛範)の家臣である。 鷲頭氏の居城深川城の支城として「荒ヶ峠」の入口を押える位置ある。
大内持世が没するとあとを継いだ大内教弘は弘忠を罷免し、新しく内藤有貞を守護代とする。文安5年(1448年)教弘は大軍をもって鷲頭氏を攻め、一族郎党皆殺しとなった。 この時、大内軍は搦手の外城堅田城を攻め落とし「荒ヶ峠」を越えて深川城へ侵攻した。
堅田城は標高314mの山に築かれている。
主郭は山頂の曲輪iで、東西に長く伸びた曲輪の西端に一段小高い土壇がある。この曲輪から南(堀1)と西(堀2)の尾根に浅い堀切があり、その間に一条の竪堀を残す。
主郭から北東へ伸びた尾根を降ると堀切(堀3)があり、その先は緩斜面地形が続くが曲輪iiの部分が若干造成している。この先も自然地形が続き、北東端の曲輪iiiに至る。
曲輪iiiは南西に広い曲輪があり、そこから北東方向に細長く伸び、先端が一段高く削平され、北尾根に二重堀切(堀4)を設けて遮断している。この曲輪iiiに朽ちかけた標柱が建っていた。
堅田城と千人塚の案内板が南の県道沿いにある。登山道はないが南端から急坂を登って尾根伝いに行くことができる。
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